貧しくも、嫁いだ家の為に尽くした「伊知」。体が弱く働けない家族の為に一人で生活を支えた、伊知の考を称え、中津城主奥平公が彼女の墓を建て顕彰しました。
約800年前、平家の平景清が逃げ延びた日向の地で、眼病に苦しむ人々のために自分の目を神様に供え、治癒を祈念したのが生目神社の成り立ちと言われています。当神社は約300年前、日向から分霊させてもらったもので、現在の堂は大正初期に県立されたものです。
毎年、4月の第一日曜日に大祭が催されます。
臨済宗大徳寺(京都)を本山とし、開山は室町時代。約600年の寺歴を持ちます。裏山にはかつて矢部氏の居城(丸山城)があり、今は丸山墓地となっており、宝塔や五輪塔20基ほどがあります。
壇ノ浦の合戦で平家の落人たちが、山地に住むか里に住むかを談合(相談)した所が「談合堂」(恵良酒店近く)、そして峠で泣き別れところから「泣別峠」(なきわかれとおげ)と呼ばれるようになったという事です。
江戸時代、近くの村の男前、長助どんが顔中イボだらけになり、この地蔵にお祈りしたところ、元のきれいな顔に戻ったという。
健康長寿と美肌のお地蔵様。
標高298m。
山頂部には約600年前に矢部一帯を治めていた矢部氏が築いた山城(龍ヶ鼻城)の石垣や堀の跡が残っています。